ピカソを見ていたら、創作はずっと苦役列車だったのかもしれない
ピカソのことを考えていた
神童だったとか、父が画家だったとか、そういう入口はある でも、画集をぱらぱら見ていると、結局いちばん伝わってくるのはそこではない
なんだこの更新速度は、ということ
青の時代があって、バラ色があって、キュビスムがあって、また変わって、晩年までまだ変な絵を出してくる 同じ場所に居続けられない人の落ち着かなさが、そのまま画面に出ている
経歴を読む前に、画集のほうが人格をしゃべってしまうタイプの人だと思う
レオナルド・ダ・ヴィンチのような、宇宙の静けさや構造美に魅せられた人とは少し違う ピカソはもっと人間くさい 欲望くさいし、承認くさいし、競争くさい 部屋で描いたものを見てほしくてたまらない感じが、ずっと抜けない
陽キャでもあり、陰キャでもある 人前に出る力もあるのに、最後はまた部屋に戻って手を動かし続ける 人と関わらず創作だけやっていけるサイコさがあるのに、見てほしい気持ちも強い
その矛盾が、たぶんピカソのサイコさだった
で、ここから急に他人事ではなくなる
自分はここ数年、DCGやHearthstoneやじゃんたまに、かなり逃がしていた 怠けていたというより、創作の苦役から退避していたんだと思う
描かないと自分のアイデンティティが示せない感じが、どこかにある でも描くことは苦しい 自己肯定感がほしいのに、SNSでどやってる一枚絵の絵師を見ると、嫉妬と軽蔑が同時に湧く あのキラキラした感じに引っ張られたくないのに、心理的にはずっと引きずられる
だから余計に、描く気が重くなる
でも昨日、クリスタで放置していたネームに文字を入れた たったそれだけのことなのに、少しだけ呼吸が戻った感じがあった
ああ、自分はたぶん、創作から逃げていただけではない 創作に救済されたいのに、苦役もいっしょに引き受けるのが嫌で、ゲームのほうへ避難していたのだと思った
ここでまた、ピカソの話に戻る
写真が出て、映画が出て、レコードが出て、20世紀は視覚芸術にとって、もう別に画家が手で描かなくてもいいんじゃないか、という時代でもあった それでも人は描き続けた
セザンヌ以降、そのソウルを受け継いだり、受け継がなかったりしながら、20世紀のクリエイターは思ったよりずっと手を動かし続けた 必要だから描いたというより、もう不要かもしれないのに、それでも描くことでしか自分を示せない人たちがいた
そう考えると、20世紀の創作者たちは、ずっと苦役列車を走っていたのかもしれない
ダ・ヴィンチ、セザンヌ、ゴッホ、ピカソ それぞれ全然タイプは違う でも、創作でしか自分の中心に触れられない感じは、どこか共通している
その苦役が前面に出る人もいる 救済のように見える人もいる たぶん実際には、その両方があったのだと思う
ピカソも若い頃はかなり緊張が強かったはずだ 証明しないといけない、更新しないといけない、見てほしい、勝ちたい、その圧が強い でも晩年は、若い頃ほどの切迫ではなく、創作それ自体が棲み処になっていった気配もある
静かに悟ったというより、俗っぽい欲や執着を残したまま、それでも手を動かし続ける場所が自分の居場所になった、という感じかもしれない
自分も40歳になって、またそこに引っ張られている 救済されたい でも救済は、苦役とセットでしか来ない
ただ、若い頃と同じやり方で、その苦役を引き受ける必要はもうないとも思う
全部手描きにこだわるか 全部AIでいいじゃんで降りるか この二択ではない
たぶん2022年以降の新しい地獄は、その中間にずっと立たされることだ 人間がクリスタでできる可能性を信じたい気持ちもある でも、もう全部自分で描かなくてもいいだろう、ネームや構成に寄っていけばいいだろう、という感覚もある
AIやツールでそれっぽいキラキラ画を出して、クリエイター面している層をどこか軽蔑している自分もいる でもその軽蔑の中には、単純な倫理観だけではなく、自分自身の迷いも混ざっている
要するに、自分はまだ完全には降りていない でも、昔の絵師信仰にも戻れない
だったら、削るしかない 軽くするしかない 引き算でいくしかない
ネームを書く 文字を入れる 一コマだけ直す AIは下働きに使う 未完成でも直デプロイする
そのくらいの軽量さで、苦役列車に乗り直すしかないのだと思う
大作家のような話ではもちろんない でも、ピカソの画集を見ていたら、創作というものは昔からずっと、救済と苦役の両方を積んだまま走っていたのかもしれない、と思った
そしてたぶん、自分もまた、その列車に戻りたがっている