ケイゾクと、ノンキャリアの話

20代中盤で、ドラマ『ケイゾク』を見た。
中谷美紀が演じる柴田純は、警察庁のキャリア組だ。20代で、すでに「警部補」の階級にいる。現場の叩き上げ刑事が30年かけてやっと辿り着くかもしれない階級に、研修という名目で座っている。ドラマの中でそれは「変人の天才」として描かれていたが、当時の自分が受けた衝撃は、そこではなかった。
「東大を出て官僚になると、20代でそういう席に座れるのか」
それを、そこで初めて知った。

恥ずかしい話だが、本当にそうだった。公立の中学高校で育って、親から「いい大学に行って、いい会社に入れ」という言葉しか聞いていなかった。先生たちもそれ以上のことは言わなかった。「キャリア」と「ノンキャリア」という概念が日本の官僚機構に厳然と存在していて、入り口の試験一つで、その後の人生の天井と速度が決まるという事実を、20代になるまで知らなかった。
今の40歳の目から見れば、情弱と言われても仕方ない。ただ、知るための経路がなかったのも事実だ。
親の言葉は嘘じゃない。ただ、親が見えていた「最高の選択肢」の射程がそこまでだっただけだ。公立の先生たちも同じで、彼らは地方公務員だ。ノンキャリアだ。霞が関の内側を体験したことのない人間には、その内側の話を地図として渡せない。悪意はない。見えていない地図は渡せない。
霞が関の枠は、固定されている。
国家総合職、年間約1,500人。財務省に入るのは20数名。この数字は、1950年代生まれの私の親世代の時代でも、1976年生まれの氷河期世代にも、2000年生まれの今年の新社会人にも、ほとんど変わらない。ただ、入った後に背負わされる重さが世代によって違う。父の時代は右肩上がりの坂の上に立っていた。今の1,500人は、少子高齢化と財政赤字という重さを背負って走らされている。同じ1,500人の枠でも、意味が変わった。
解決しない話をしている。
霞が関の構造は変わらない。自分が今さらキャリア組になれるわけでもない。「情報格差があった」と言葉にしたところで、20代の自分に届くわけでもない。古代中国の科挙から連続するこの「入り口で人生が決まる」構造は、1000年単位で形を変えながら存在し続けてきた。日本が資本主義を名乗っても、その内側に封建的なフレームワークが残っている。それがこの国の正体の一部だ。
ただ、40歳でそれを言語化できたことを、無駄だとは思っていない。
遅くても、地図を持った人間と持っていない人間では、歩き方が変わる。その差は小さいようで、積み重なると大きい。『ケイゾク』を見て「変人の天才刑事の話」で終わらず、「この社会の構造を自分は知らなかった」と受け取れたなら、それだけで十分だったと思っている。
ペシミスティックな話ではあるが、開き直りでもない。ただの、確認だ。
Photo credits: 1. 663highland / CC BY-SA 3.0 2. Miyuki Meinaka / Public Domain — via Wikimedia Commons